中岡慎太郎 | 時勢論

中岡慎太郎

中岡

【はじめに】

中岡慎太郎(1838~1867)

 龍馬と並ぶ幕末の英雄、中岡慎太郎は、1838年4月13日、安芸郡北川村の大庄屋中岡小傳次の長男に生まれた。幼い頃から優秀な慎太郎は、14歳の時には塾長代理を務めるまでに。

 慎太郎は、二十歳で結婚し、北川郷の大庄屋見習いとなる。その翌年、土佐に大地震があった。さらに、コロリと呼ばれた疫病が大流行した。北川郷の村人の生活は苦しくなり、慎太郎は、自家の山林や田畑を担保にして近村の富豪から米麦を借り入れて人々にほどこしたが足りず、藩にせまって、八百両を借り入れた。またある飢饉の時、慎太郎は四方に手をつくし、薩摩芋五百貫を手に入れて救済したがそれだけでは足りず、意を決した慎太郎は早朝に城下をめざし、国家老・桐間蔵人にかけあって、官倉を開いて村民を救うことを承諾させた。慎太郎の死後も村民はこのことを忘れることができず、明治四十四年、彰徳碑を建てている。
 薩長同盟の成立は理論武装した慎太郎の弁舌による功績が大きい。龍馬は歴史の表舞台に出たが、舞台の裏方として、重要な仕事をしたのが慎太郎だった。龍馬と慎太郎は、言うなれば、幕末を駆け抜けた、駿馬の前足と、後ろ足だった。この二大英傑なくして薩長同盟は成立しえなかった。
 龍馬と慎太郎はその目指すところは同じだったが、目的を達成する方法論がちがっていた。総論においては同じでも、各論においてちがっていた。理想主義者である龍馬はあくまでも無血クーデターを主張し、慎太郎は『戦』なくしては、倒幕はありえないと考えていた。それを実践するめために、慎太郎は『陸援隊』を組織した。慶応二年、五月十一日慎太郎は、板垣退助を西郷隆盛に紹介し、密かに薩土倒幕の密約を結び、山内容堂の決意をうながした。
 志半ばにして、維新を見ることなく、1867年11月15日京都近江屋で慎太郎は盟友龍馬とともに暗殺された。慎太郎、三十歳、龍馬三十三歳だった。

 少々前置きが長くなってしまいましたが、私は龍馬と同じ位お気に入りな志士です。

ちなみに、本ブログは慎太郎の書いた「時勢論」をパクらせてもらいました。

慎太郎は、前置きのエピソードにもあるように、他人に対して非常に献身的な人物だったという

話をよく聞きます。女房も子供もいましたが、すべてを捨てて国事に奔走していました。

そして、刺客たちに襲われ、瀕死の重傷を負っても日本の行く末を心配していたという、

志士の中の志士。己の私欲を捨て、信念に向かって時代を駆け抜けた武士です。

龍馬をはじめ、こうした先人の方は日本の宝です。